2011年6月23日

沖縄 慰霊の日に

 中川学童保育所の特長の一つとして年平均130~150号発行している、学童保育所通信『てだのふぁ』をあげることができます。つまりこれは一週間に3号発行していることになり、こうして考えると結構大変なことですが、一番には日々の子どもたちの様子を“伝えたい!”という欲求に駆られて続けています。
 同時に、このことはこれまでも述べてきましたが、私は学童保育所の生命線は、子どもを真ん中にした親と指導員の“共感”だと考えており、そのための一つのスツール、これが中川学童では『てだのふぁ』なのです。
 てだのふぁ…、きっと知っている方は知っている言葉なのではないかと思います。なぜ通信名が『てだのふぁ』なのか、この通信にどんな想いを込めたのか、このことを毎年春先に通信に掲載します。

-以下、中川学童保育所通信『てだのふぁ』2011年度№39より-
 皆さんのお手元にお届けしている学童通信『てだのふぁ』-      “てだのふぁ”というのは沖縄の方言で“太陽の子”という意味です。
 そしてこれは児童文学者・灰谷健次郎氏(故人)の著作『太陽の子』から転用しました。
 人との出会い、音楽・映画・本との出会い‥など、人生の中には様々な出会いがあります。そして、そんな出会いによって自分が大きく変えられることや、物の見方が大きく変わることってありますよね。私にとって灰谷文学は、そんな大きな出会いでした。
 『太陽の子』の中で、主人公のふうちゃんが担任の先生にあてた手紙に
「知らなければならないことを知らないでいるような、そんな勇気のない人間にはなりたくはない‥」
というそんな一節があります。そしてふうちゃんは勇気をもって、自分につながる人の歴史をたどって行きます。私たちの生活の中には、権力によって意図的に知らされないでいることや、歪められてしまっている事実-、知らされていない歴史、そんなことが本当にたくさんあります。
 私が出会う子どもたちにも、ふうちゃんのように考えることができるような、そんな子に育ってほしい‥そんな願いを込めて命名しました。 もちろん、子どもたちの前に、先ずは私たちが学ばなければ、そんな視点を持たなければなりません。子どもたちは身近にいる大人に憧れをもって成長します。私たち自身が、子どもにとっての良き模倣者でありたいですね。
 
 さて、「ありったけの地獄を集めた」(米軍報告書)という戦いに20万人を超す命が消えた沖縄戦(以上、6月23日付・朝日新聞『天声人語』より抜粋)。今日、沖縄は66回目の「慰霊の日」を迎えました。しかしそんな沖縄のことを、私は名古屋に出てくるまで、そして大学で沖縄出身のクラスメイトに出会うまでは知りませんでした。
 20代半ばだったでしょうか、初めて沖縄に行き南部戦跡巡りを行いました。そしてこれもまた初めて入ったガマ(洞窟)で、ガイドさんの合図で参加者が一斉に懐中電灯を消したときの漆黒の闇。
 その暗さ…、それまで経験したことのないものでした。この中で、死人もいる横で赤ちゃんからお年寄りまでが身を潜めていたとは…。そのときの衝撃、いまでも忘れることができません。
 そして、こうした歴史の事実、きちんと伝えていかなければならないと思います。

 ところで、子どもたち全員を満遍なく均等にこの通信で紹介したい‥という想いはあるものの、どうしてもその時々のトピックス(ドラマ、事件など)や“旬の時”(お子さんが大きくかわる時)を迎えた子どもたちの話題が中心となってしまう傾向があり、我が子の名前が何号に渡っても見当たらない!なんてこともあるかもしれません。しかし、自分のお子さんのお名前がなくても、他の子の様子にもぜひ注目してください。学童っ子みんなを我が子のように見ていただくことができれば‥と思います。子どもたちの成長の速度は一人一人違います。 “旬の時”は、必ずみんなに訪れます。


 しかし、皆さんの想いと私たちの想いがズレているのでは?ということを感じられた場合は、5月父母会では通知表の取り扱いを例にお話しさせていただいましたが、遠慮されずそのときにお知らせ下さい。

 さぁ、一緒に子どもたちを見守って行きましょう。

 さて、『てだのふぁ』ですが、第1号発行は1984年10月。足かけ27年、この4月に通巻3,000号となりました。保護者の皆さんから卒所されるときに
「1年生の頃からのもの、ずっと取っておいています」
の言葉や、また、日々の
「この前、『てだのふぁ』に○○○○○○○○○○○○のことがのっていたね」
などのキャッチーボールの様な言葉に励まされてここまできました。号数を重ねればいいというものではありませんが、また、NPBの名球会入りを目指しているわけではありませんが(^_^;、私の目に映る子どもたちの姿をできるだけ伝えて行きたいと思います。
 ところで、私が通信発行を始めた頃は(通信名が『てだのふぁ』になる前)、ナント!学童からの発行物はガリ版でつくっていたのですよ。今なら修正は簡単ですが、当時は下書きをした上で、コリコリ…と。字を間違えると修正液で修正し、再びその上から。そして印刷は手を真っ黒にしながらローラーを回して一枚ずつ手刷りで…。
 しばらして、学校に勤めている保護者のルートで廃棄処分の輪転機が入った時は、もう涙、涙!でした(#^.^#)。それが今はパソコンとレーザープリンター。いやぁ~、時代は変わりました。
 そしてその時代はこれからも変わって行くことでしょう。しかしどんなに時代が変わっても、どんな時代になっても変わらないもの、それは人の命の重さです。
 みんなの命が大切にされる、そんな社会に、世界にして行きたいですね。…なんて、大風呂敷は広げられませんが(^_^;、今やっていることを精一杯やることで、きっと、ここから何かが生まれ育ち、そしてそれは社会を変えて行くための、小さいけれど大切な一つの力に。


 命どぅ宝。沖縄、慰霊の日に…。

灰谷健次郎氏の『太陽の子』は、
学童を卒所する子どもたちにプレゼントしています-
 

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