2009年6月29日

6月23日は沖縄慰霊の日、そして『てだのふぁ』

 重松清さんの『カシオペアの丘』を読み終える。完全にハマりました(#^.^#)。これは私のパターンか、そういえばそれぞれの年代で特定の作家に夢中になっていたなぁ。
 中学時代…、今から思うとヘンなトモダチの影響を受け、戦記物を思いっきり読んでいました。坂井三郎さんの『大空のサムライ』とか。おまけに思いっきり感化されていたので、高校受験前その決意を作文に書かされた時には、
「神風よふけ」
と締め、当然のことながら担任にはあきれ顔で、
「そんなこと言っていないで、勉強しろ!」
 高校では司馬遼太郎。浪人中には三浦綾子。
そして、大学での灰谷文学との出会い…。そんな灰谷文学との出会いがあり、やっと沖縄出身のクラスメイトがその自己紹介の時に
「本土の人は…」
と言っていた、その“ホンド”に込められた意味が、まだまだ終わっていない戦争のことを知りました。
 今も大して物事を知っているわけではありませんが、それまで本当に何も知らずにのほほんと生活していたことに愕然としたことを、今でも覚えています。こうした経過から中川学童の通信名は『てだのふぁ』に。
 以下、先日発行した『てだのふぁ』から抜粋します。

 皆さんのお手元にお届けしている学童通信『てだのふぁ』-      
“てだのふぁ”というのは沖縄の方言で “太陽の子”という意味です。そしてこれは児童文学者・灰谷健次郎氏の著作『太陽の子』から転用しました。
 人との出会い、音楽・映画・本との出会い‥など、人生の中には様々な出会いがあります。そして、そんな出会いによって自分が大きく変えられることや、物の見方が大きく変わることってありますよね。私にとって灰谷文学は、そんな大きな出会いでした。
 『太陽の子』の中で、主人公のふうちゃんが担任の先生にあてた手紙に
「知らなければならないことを知らないでいるような、そんな勇気のない人間にはなりたくはない‥」
というそんな一節があります。そしてふうちゃんは勇気をもって、自分につながる人の歴史をたどって行きます。私たちの生活の中には、権力によって意図的に知らされないでいることや、歪められてしまっている事実-、知らされていない歴史、そんなことが本当にたくさんあります。 
 私が出会う子どもたちにも、ふうちゃんのように考えることができるような、そんな子に育ってほしい‥そんな願いを込めて命名しました。もちろん、子どもたちの前に、先ずは私たちが学ばなければ、そんな視点を持たなければなりません。子どもたちは身近にいる大人に憧れをもって成長します。私たち自身が、子どもにとっての良き模倣者でありたいですね。
 さて、この『てだのふぁ』では、学童での子どもたちの様子をいきいきと伝えて行くとともに、学童からの連絡事項を載せます。お忙しいこととは思いますが、必ず目を通してください。
 また、全員を満遍なく均等にこの通信で‥という想いはあるものの、どうしてもその時々のトピックス(ドラマ、事件など)や“旬の時”(お子さんが大きくかわる時)を迎えた子どもたちの話題が中心となってしまう傾向があり、我が子の名前が何号に渡っても見当たらない!なんてこともあるかもしれません。しかし、自分のお子さんのお名前がなくても、他の子の様子にもぜひ注目してください。学童っ子みんなを我が子のように見ていただくことができれば‥と思います。子どもたちの成長の速度は一人一人違います。
 “旬の時”は、必ずみんなに訪れます。

2009年6月15日

ハマった!


 ヤバイ(^^ゞ!
重松 清さんにハマってしまった。
今週末に控えた大きな会議のための資料ができていないのに…、ドウシヨウ。
 しかし、この一冊は私が人生を考えるターニングポイントとなる、また、そうしなければならない出会いである。
 実はこれは映画化されており、つい先日DVDが発売されたとか。
 とにかく、週末まで、ガマン、ガマン…。
 詳しい感想も、後日。

2009年6月12日

フォローになっていな~いッ(#^.^#)!

 今年の一年生のお友だちはみんな真面目!
「公園へ行く時は帽子をかぶろう」
という私のお達しをしっかり受け止めてくれているので、公園へ行く時には黄色の帽子が六つ、仲良く揺れています。
 中でもR太郎くんはチョー真面目、そしていつも真剣です。
 例えば、先日、学童の庭で遊ぶために外へ出たR太郎、しかし、
「あっ、ぼうし…」
とすぐに部屋に戻ってきました。
「今日は太陽は出ていないから、帽子はかぶらなくてもいいよ」
 やりっ放し、そして私たち指導員の言うことなんてどこ吹く風(^^ゞ…といった感じの子が多い中、本当に奇特な子です。
 ただ、真面目すぎて、思わず笑ってしまうことも!
一輪車を練習していたCちゃんの写真を撮った時、
「Cちゃんって、よく見るとお母さんに似ているね」
と言うと、Cちゃん
「エーッ!やだぁ、あんなデブ!」
「……」(^^ゞ
 するとこんな私たちのやりとりを聞いていたTくんとR太郎、まずTくんが憮然とした表情で(この子もR太郎に負けず劣らず真面目!)、
「そんなこというもんじゃない」
すると、そんなTくんの言葉を受けたR太郎くん、真剣な顔で
「そうだよ、いくらデブだって、そんなこといったらシツレイだよ!」
「……」(^^ゞ
 もう、返す言葉がありませんね(#^.^#)。でも、R太郎くん、それでは、
フォローになっていな~いッ!
 昨日、6月11日付けの朝日新聞『天声人語』で子ども達のほのぼのとした「あのね」が紹介されていましたが、子ども達との生活の中には、思わず笑ってしまうような、そして心が温かくなる彼らの言葉や想いがたくさんあります。
 そんな瞬間に立ち会えること、指導員の役得です。
*ちなみにCちゃんの言葉ですが、もちろん、日常のお母さんとの優しい時間がある中でのものです(#^.^#)。


2009年6月7日

かあちゃん

 何年ぶりだろう、小説を一気に読み切るなんて。ここ数年の読書はというと、実践書などが中心で、しかもそれは本を楽しむというより“読まなければならない”という、ある種の強迫観念から(^^ゞ。だから一冊読み切るには時間もかかるし、どれだけの本が最後までのページをめくられることなく山積みされてきたことか。
 そんな中、朝刊の広告スペースで見つけた『かあちゃん』のタイトルと「生まれてきた瞬間、いちばんそばにいてくれるひと」「重松清が初めて描く母と子の物語」などの書評。思わず速攻でアマゾンから取り寄せると、もう一気に。かあちゃん…私は母のことをずっと「お母さんと」と呼んでいるが、今こうしている間にも確実にその時に向かって年をとっている母。そんな田舎で暮らす両親とこれからどう向き合って行くのか?日一日と老いている両親の生活をどうして行くのか?もしも介護が必要になったら?そう、今の私の名古屋での生活は母の健康の上に成り立っている。そんな母に甘えて、いつもこのことを考えているわけではないが、また前述の自問についての答えについてはずっと先送りしているが、その答えを出さなければならない日がもし突然やってきたら?
 さて、その著者の重松 清さんだが、数年前の全国研(全国学童保育研究集会)・記念講演でお話しを聞いたのだが、私としてはあまり印象深くなかったので、メディアで重松さんの本が紹介されていてもこれまではスルーしてきた。しかし、このタイトルと前述のことから、今回初めて重松作品を手に取った。
 さて、この作品、実はいじめ問題もテーマになっており、「かあちゃん」はもとより登場人物一人一人とどこにでもありそうなその家族が主人公で、そんな家族の生活が折り重なるように、まるで映画みたいに描かれている。そして「かあちゃん」が抱え選んだ人生が、まったく別の場所と時間の中で生活していたいじめた側、いじめられた側の子どもたちの心をつなげて行く…。
 どうやら重松作品にはまりそうである(#^.^#)。 
 次は、父親と息子が描かれているという『とんび』かな。